木曽古文書館

木曽家と可児 江戸城本丸平面古図集成

可児市史編纂室長 中島勝国

木曽家は、明治五年に改姓する迄は、千村と称していた。慶長六年(一六〇一)に、前年の関ヶ原を中心とする一連の東西天下分け目の決戦で、木曽谷平定の恩賞と、その経緯から、屋敷を美濃国可児郡久々利(岐阜県可児市)に構えた。久々利での千村家は、代々平右衛門を襲名し、十一代続いた。明治四年十一代仲展は、家督を子仲重に譲り隠居した。この仲重が木曽と改姓したのである。

江戸時代初期、慶長年間に可児の地には、徳野に平岡氏(一万石余)、姫下切に岡田氏(五千石)が、それぞれ屋敷を構えていたが、岡田氏は寛永八年(一六三一)に西濃揖斐へ采地替となって移り、平岡氏は承応二年(一六五三)に改易にあっている。それで江戸時代を通して可児の地に武士集団が居住していたのは、久々利の千村家のみであった。

屋敷は、久々利川の開折した可児市の東へ延びる平担地の東端に位置し、北側は山に接し、東・南は、いくばくかで久々利川に接するところに構えられた。寛政年間尾州藩士樋口好古の濃州徇行記には、千村氏屋敷を「高札場を東へ行く処にあり、郭外壕ありて城郭の如し、家中屋敷は十二戸ほど門前にあり」としている。現存する遺構は、南北約一〇〇メートル、東西約一五〇メートルの敷地で、北側の山に接しているところ以外を廻らしていた石垣の一部と裏門近くにあった隅櫓跡の石垣が残り、往時をしのばせている。残されている屋敷図によると二十一棟ほどの建物があったことがわかる。この屋敷が上屋で、これに続いて門前の大手通りに当る道の北側に下屋敷があって、現在、その下屋敷の一角に建てられていた隠居所(春秋園と称した)に昭和十九年大阪から疎開された直系の御子孫、十四代にあたられるのが木曽義明氏である。木曽古文書館として、同家に伝わる古文書類等を公開してみえるのが同氏の御母堂としえ氏である。この隠居所に続いて下屋敷の庭が遺存している。回遊式庭園で美濃に居住した旗本の庭園として残されている唯一のもので、歴史的に文化財的に貴重な遺構の一つである。

表門へ続く大手通りは、約五〇〇メートルあって、その両側に家臣の屋敷が並び、小城下町の様であったと思われる。家臣は、幕末の史料ではあるが、文久元年(一八六一)「家中分限帳」には、上席は家老から、下席の中間にいたるまで、合せて一〇六名の家臣名があげられている。父子で出仕している者、江戸・名古屋・飯田などの屋敷詰の者や、仲間などで屋敷内に居住していたであろう者を除き考えると、七〇軒ほどの武士が久々利に軒を並べていたと思われる。

千村氏歴代の墓は、菩提寺である久々利の東禅寺にある。初代の良重の墓は廟に納められている。その隣に台座に慶長十七年五月宝宅恵光大姉とあって、良重の室の墓である。尚、この東禅寺は千村良重の主人木曽義昌が下総国網戸(千葉県旭市)に開基した東漸寺を開いた悦堂の法嗣藍外正宗を慶長十六年(一六一一)招請し、梁南禅棟が開山したものである。  千村氏歴代の中で異彩を放つのは九代仲雄で、本居春庭の門に入り、国学と和歌をよくし、文政二年(一八一九)「泳宮考」を著し、「日本書紀」の景行天皇美濃行幸の泳宮とはこの久々利であるという考えを示した。この学問好きにより、毎月屋敷内の大広間で講経詩会を開いたという。

仲雄の子仲泰 (洞陽)は、漢学・蘭学・英学に秀で、尾張藩に洋式兵制の採用方などの進言をしたり、藩政改革を唱えた。のち、一族五郎(仲泰の弟)や家臣の田中芳雄などと当代一流の英学者を輩出している。

明治となり、明治二年七月名古屋藩主徳川慶勝より一諸に東京へ移住しないかとの誘いがあった。が、その時には、田舎侍なのでと断っている。その譬に「山之狩人を浜之猟師仕と同じく」とか、「山林自在生長する木を抜取来りて、都下移し鉢植仕事如し」といっている。しかし、明治三年家禄も一三七石余となり、明治六年秩禄奉還法が定められ、同九年からは禄制の廃止と、追討をかける改革についていけなかったのか、明治八年四月長年住み慣れた久々利をあとにして東京へ移住された。

ページの先頭に戻る