木曽古文書館

木曽家所蔵「江戸御本丸明細図」について

日本大学法学部教授 村井益男

江戸城本丸御殿の変遷――この図の端裏には、朱書で「江戸御本丸明細図」と記されている。確かに紛れもない将軍の居城、江戸城本丸御殿の殿舎図である。江戸城には多くの殿舎があったが、本丸殿舎は将軍及びその家族の居所、西丸殿舎は将軍が隠居した大御所、あるいは将軍世嗣の居所であって、この両丸の殿舎がもっとも重要な建物であった。

本丸殿舎の修築は、徳川家康がまだ在世中の慶長十一年(一六〇六)にはじめて行われ、ついで秀忠の時代元和八年(一六二二)に二度日の修築が行われて本格的なものとなったといわれるが、この両度の造営については詳しいことは不明である。第三回目は三代将軍家光の時代寛永十四年(一六三七)で壮麗な建物が完成したが、これは二年後に火災のため焼失した。第四回目はその復興建築で寛永十七年に完成し、図面も残っている。しかしこの寛永度御殿も明暦三年(一六五七)の大火で罹災し、第五回目の建設は万治元年(一六五八)五月に着手、翌年八月に竣工した。万治度の御殿は途中部分的な改修を加えられながら長期間続いたが、弘化元年五月に罹災焼失、その後も安政六年、文久三年にも災上し文久の災上以後は本丸殿舎は再築されず、西丸殿舎が将軍居所にあてられた。以上のような本丸殿舎の変遷のなかで、この御殿図がどれにあたるかというと、万治造営の殿舎図であると考えられる。

本図の作製年代-万治造営の御殿は、前述のように部分的改修を加えながら百八十七年間も維持された訳であるが、この図はそのうちのどれ位の時期のものであろうか。東京都立中央図書館には、江戸幕府の大工の「大棟梁」であった甲良家の文書が所蔵されており、その中には多くの江戸城関係の図面が含まれている。調べてみるとその中の「御本丸御表方惣絵図」と本図の「表向」の部分が、全く同じとはいえないがほとんど同一であることが判明する。そしてこの図面の表向御納戸口にある老中・若年寄の控室の部分の人名から割り出してゆくと、その年代は享保二年九月から享保七年五月までの間に限定されてくる。

いっぽうこの木曽家の図面では、老中・若年寄の人名は無いが、中ノロを入った右奥の控室に「林大学・同百助」という人名がみえる。甲良家の図ではここに「林七三郎・同百介」と記してある。「寛政重修諸家譜」によると、林七三郎の名は信允、有名な儒者林信篤(鳳岡)の子で、百助はその弟であり、その七三郎が父の跡をついで大学頭となったのは享保八年二月九日、致仕したのは宝暦七年六月廿八日、林百助の死没は寛保三年六月四日となっている。

さらに、甲良家の図には、将軍の日常起居の場所である「中奥」の改築図が一面添えられているが、この改築はいつ行われたものであろうか。建築史の専門でない筆者には、図面の上の細部はわからないが、八代将軍吉宗は、将軍襲職の直後、六代将軍家宣のとき新井白石の建議により改作された四脚門を撤去して旧の如く塀重門とし、華美な建築であった休息所をも破却し、しばらくはこわし残しの軒廊に手を入れて起居したといわれる。そして休息の間や御小座敷の本格的な改築を行ったのが享保十二年のことであった。添付されている図面がこの享保十二年の改築図であるとすると、木曽家の図の作製年代はさらに限定されることになる。

すなわち、木曽家図面の中奥部分は、改築前の状態を示す甲良家図面とほとんど合致するからである。したがって前記の年代限定を重ねあわせると、木曽家図面が示しているのは享保八年から享保十二年の間の江戸城本丸御殿ということになろう。

本図の重要性ー江戸城の図面と称するものは、世上にかなり流布しており必らずしも珍らしくはない。しかしその大部分は簡単な略図や転写を重ねたもので、出所も明らかでなく良質のものは少ない。信用のおける図面といえど前記の甲良家のような旧棟梁家系統や、旧大名家などに伝来するものとなり、極めて限られてくる。閲覧もそう容易ではないし、複製などの手段で公刊されている周面も一、二に限られている。そのような中でこの木曽家の江戸城本丸御殿図は、大工棟梁家の図面につぐ細密さと正確さをもっていることが確かめられるし、またその表示年代が享保八年~十二年とごく眼られた時期に限定できるのも、利用上大変重要であると思われる。そしてまた、前記の甲良家の図面は大奥の部分を欠いているが、この図面は表向・中奥・大奥と本丸殿舎をすべて一図にまとめて完備しているのも他にみられない便利な点であって、本図を一層貴重なものとしている。

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