徳川家康朱印状(慶長5年8月朔日)
慶長5年8月朔日
木曾奉公人中宛
関ヶ原戦直前の慶長5年(1600)7月28日、家康は下野国小山の陣所に、木曾氏の一族、千村平右衛門・山村甚兵衛ら4人を招き、忠節を尽くすべき朱印状を与えた。
前田利家書状
天正18年3月12日
千村十左衛門(政直)宛
天正18年(1590)は秀吉の小田原攻めの年。利家は4月20日、上野国松井田城をおとしているので、そのあたりの交渉があったと思われる。
大久保石見守書状
(慶長6年か)7月18日
千村平右衛門・山村七郎右衛門宛
大久保十兵衛長安は、猿楽師の子として甲州に生まれた。家康の関東入国後は伊奈忠次とともに、代官頭として徳川検知を指揮。慶長5年(1600)には加判 (後の年寄・老中)となり、石見、佐渡、伊豆の鉱山奉行を兼ね、幕府財政の強化に多大の功績があった。このほか、江戸城の修理や東海・中山・北陸の諸街道の整備にも活躍したが、死後、その不正が露見し、追罰された。
豊臣秀吉書状
(天正12年)卯月4日
木曽伊予守宛
天正12年(1584)4月9日、長久手の戦で、秀吉の別動隊の池田信輝らは敗北する。この直前の情況を知らせている。
今井兼平書状
卯月7日
木曽内蔵人宛
木曽義仲育ての親、信濃権守中原兼遠の四男、筑摩郡今井村に住み、今井と称す。義仲四天王の一人。寿永3年(1184)近江粟津で、義仲と共に討死。