木曽古文書館

ここ木曾古文書歴史館では清和源氏「木曾義仲」の子孫であり、江戸時代には幕府の旗本であると同時に、尾張徳川家の重臣でもあった木曾氏・千村家に伝わる「書状」「絵図」などの資料を多数展示しております。
岐阜県可児市久々利の「木曾古文書歴史館」に是非お立ち寄り下さい。
あわせてご案内申しあげます。

木曾古文書歴史館 館長 木曾義明

木曽古文書館とは

古文書館の門構え。旧千村家下邸。
本邸上邸(現可児郷土歴史館)の西側にあり、西邸とも呼ばれ、隠居や部屋住みが生活していました。現在その一部は子孫の住居となっています。

ここ木曾古文書歴史館は清和源氏「木曾義仲」の子孫であり、江戸時代には幕府の旗本であると同時に、尾張徳川家の重臣でもあった木曾・千村家に伝わる「書状」「絵図」などの資料を展示しています。

木曽・千村家について

江戸時代、幕府にあっては、旗本として表交代寄合並・外様大名柳の間詰であり、尾張藩では、城代格大寄合という特殊な二重封臣の性格を持った千村家は、清和源氏朝日将軍木曽義仲を祖としている。

延享2年(1745)松平君山によって編集された尾張藩士の系図を集大成した『士林泝涸』によると、清和天皇12代の孫、征夷将軍義仲の子、朝日三郎義基は父の没後、甲州に身をかくしたが、義基6代の孫、家村は雄略であり、士民も敬服、木曽を領した。その弟、家道があとを継ぎ、代々木曽を領有した。家道 10代の孫、義昌は木曽家中興の祖といわれているが、この時代は織田信長・豊臣秀吉のころである。

家村の5男、五郎家重が、康永元年(1342)上野国千村郷を領し、はじめて千村の姓を名乗った。その子孫は、後に木曽へ帰り、代々本家の職を勤めた。天正18年(1590)秀吉は、木曽義昌・義利を木曽から下総国海上郡網戸に領地替を命ずる。この時、千村政直・良重父子も下総に移った。ついで慶長5年 (1600)義利は家康から領地を没収され、伊豫松山に流浪、千村平右衛門良重は下総国佐倉で浪々の身となる。

慶長5年、関ヶ原合戦のとき、家康は中山道を西に向う秀忠の軍を進めるために、木曽谷・東濃の平定と先導役が必要であった。このため、家康は本多佐渡守・大久保十兵衛の進言により、木曽氏の一族である千村平右衛門良重を、7月28日、下野国小山の陣所に召出し、旧領の回復と忠節をつくすべき旨の朱印状を与えた。戦後、家康はその功を賞し、千村を始めとする木曽衆12氏に対し、美濃国にて、16,200石を与えた。

千村家は、そのうちの4,400石を配付され、美濃国可児郡久々利に屋敷を構えた。慶長8年(1603)には、信州伊奈10,000の代官、伊奈・遠州の博木山支配役を幕府から命ぜられた。博木(くれぎ)山とは幕府直轄の山林で、一定の寸法に製材された木材を採取する山である。

元和元年(1615)大阪夏の陣の帰途、家康は名古屋に立寄り、九子義直(尾張徳川家初代)の婚礼に際し、木曽の山と川を尾張藩に付属させ、尾州領とした。このとき、山村家は尾張の家臣となるが、千村家は勤務の都合上ということで固辞して受けなかった。しかし、元和5年(1619)義直からの強い要望もあって、将軍秀忠の命により、尾張家に付属した。こうして、千村家は山村氏と同様、尾州家中となるが、一方伊奈代官、伊奈・高遠博木支配役は従来通り、幕府から命ぜられ、幕藩両属の立場におかれた。尾張藩からは名古屋城下に屋敷を拝領するとともに、幕府からも江戸屋敷を拝領し、大名に準じて参勤交代の義務を負っていた。将軍の代替り、自家の家督相続には、評定所や老中宅において、将軍に忠勤を励むべき起請文を老中に提出している。尾張藩においては、代々家え付候席をして、大寄合の地位にあったが、この大寄合は閑職であり、勤務としては名古屋への出府と上使の送迎等であった。

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