木曽古文書館

展示品目録

※名称・作者は、箱書きによる

1.今井兼平書状 卯月7日 木曽内蔵人宛 木曽義仲育ての親、信濃権守中原兼遠の四男、筑摩郡今井村に住み、今井と称す。義仲四天王の一人。寿永3年(1184)近江粟津で、義仲と共に討死。
2.武田信玄書状(感状) 永禄4年正月27日 千村新十郎宛 永禄4年(1561)正月、千村新十郎政直は武田信玄に属し、西牧神二郎を討ち取り、信玄から感状と太刀を拝領。
3.木曽義康知行安堵状 9月6日 千村淡路守(豊知)宛  
4.木曽義康書状(感状) 永禄4年閏3月4日 千村新十郎宛 2.武田信玄感状と同じ戦功を賞したもの。
5.武田信玄領地黒印状 (元亀元年)午之5月25日 千村十左衛門(政直)宛  
6.豊臣秀吉書状 (天正12年)卯月4日 木曽伊予守宛 天正12年(1584)4月9日、長久手の戦で、秀吉の別動隊の池田信輝らは敗北する。この直前の情況を知らせている。
7.木曽義昌領知黒印状 (天正18年か)寅ノ3月12日 千村三郎太郎(良重)宛  
8.前田利家書状 天正18年3月12日 千村十左衛門(政直)宛 天正18年(1590)は秀吉の小田原攻めの年。利家は4月20日、上野国松井田城をおとしているので、そのあたりの交渉があったと思われる。
9.前田利家朱印状 3月15日 千村十左衛門宛  
10.徳川家康朱印状 慶長5年8月朔日 木曽奉公人中宛 関ヶ原戦直前の慶長5年(1600)7月28日、家康は下野国小山の陣所に、木曽家の旧臣、千村平右衛門・山村甚兵衛ら4人を招き、忠節を尽くすべき朱印状を与えた。
11.徳川家康書状 (慶長5年)8月15日 山村甚兵衛・千村平右衛門宛 11~14までの書状は全部、関ヶ原戦中のものである。
12.徳川家康書状(感状) (慶長5年)8月21日 同上宛  
13.徳川家康書状 (慶長5年)8月23日 同上宛  
14.徳川秀忠書状 (慶長5年)9月2日 同上宛  
15.徳川秀忠書状(美濃柿の礼) (慶長5年)10月15日 千村平右衛門宛  
16.大久保石見守書状 (慶長6年か)7月18日 千村平右衛門・山村七郎右衛門宛 大久保十兵衛長安は、猿楽師の子として甲州に生まれた。家康の関東入国後は伊奈忠次とともに、代官頭として徳川検知を指揮。慶長5年(1600)には加判(後の年寄・老中)となり、石見、佐渡、伊豆の鉱山奉行を兼ね、幕府財政の強化に多大の功績があった。このほか、江戸城の修理や東海・中山・北陸の諸街道の整備にも活躍したが、死後、その不正が露見し、追罰された。
17~25.大久保石見守書状(信州・遠州代官の事) (慶長8年か)9月12日 千村平右衛門宛  
26.代官頭連署博木人足扶持指令書 正月11日 岡田 森右馬助宛  
27.徳川頼宣書状 正月18日 千村平右衛門宛  
28.土屋相模守政直書状 正月12日 千村平右衛門宛  
29.老中・勘定奉行連署状 (元和4年)午5月24日 岡田将監・千村平右衛門宛  本多上野介正純・土井大炊頭利勝・安藤対馬守重信は老中、松平右衛門大夫正綱・伊丹喜之助康勝は勘定奉行。内容は天主材木取の件
30.老中・勘定奉行連署状 (元和5年)未3月4日 千村平右衛門・山村甚兵衛宛  
31.老中・勘定奉行連署状 6月22日 千村平右衛門他宛  
32.安藤対馬守書状(江戸御用木材の事) 3月25日 千村平右衛門宛  
33.老職連署状(博木の事) 9月20日 千村平右衛門宛 老職のちの老中。村越茂助直吉・成瀬隼人正正成の連名。
34.老中連署状 (慶長20年)正月22日 千村平右衛門他宛 慶長19年、大阪冬の陣後、関東・東北へ帰る部隊に通行手形なしでも、浪合の関所を通す指令書である。
35.徳川光義書状(年頭挨拶の礼) 正月28日 千村平右衛門宛 光義は尾張徳川家2代光友の初名
36.徳川光義悔状 10月23日 千村平右衛門宛 文面にある新平は2代の重長で、彼は寛文元年(1661)10月12日死.。光義(光友)から、3代基寛にあてた悔みの手紙であり、年号は寛文元年である。
37.徳川光友悔状 (貞享3年)10月4日 千村平六宛 3代基寛は貞享3年(1686)9月晦日死。光友から4代仲興にあてたもの
38.徳川綱誠悔状 (貞享3年)10月11日 千村平六宛 綱誠は尾張徳川家3代藩主。本状は前期光友悔状と同内容である。
39.勘定奉行連署吉利支丹制禁書状 (万治2年)9月19日 千村平右衛門宛 万治2年(1659)6月23日、幕府はキリシタン禁制を出す。
40.尾張藩寺社奉行宗門改書状 6月29日 千村平右衛門宛 尾張藩に寺社奉行が設置されるのは寛文5年(1665)正月30日で、横井十郎左衛門時信と山内治太夫知眞が任命される。時信の妻は千村重信の女。
41.千村預り地方支配並博木役起請文 貞享4年12月4日    
42.将軍御代替起請文控 宝永7年12月2日 土屋相模守他宛 徳川家宣が6代将軍を継いだ翌年、千村家6代政成から、時の老中に差出した起請文の控である。
43.久々利・美佐野鉄砲御留山相定覚 正徳5年3月    
44.将軍御代替起請文控 享保2年 戸田山城守他宛  
45.乾字金等通用期限覚 享保6年4月19日   享保5年(1720)3月、幕府は元禄銀、宝永銀の通用期限を定める。乾字金は宝永7年(1710)鋳造の小判金及び1分金である。
46.勘定奉行連署支配前々通の事 (天保3年か)3月5日 千村平右衛門宛 千村家10代仲冬は文政11年(1828)12月16日に家督を相続、天保2年(1831)9月15日、江戸に出府、信州・高州支配を従前同様に命じられた。
47.税金覚(会計官租税司) 慶応4年6月 千村平右衛門宛  
48.領収証(会計官出納司) 慶応4年8月2日 千村平右衛門宛  
49.冥加金領収証(会計官出納司) 明治2年2月10日 千村平右衛門宛  
50.笠松県貫属辞令 明治3年9月 千村平右衛門宛  
51.家禄十分の一廩米下賜候事 明治3年9月 千村平右衛門宛  
52.千村平右衛門元知行所引渡書 明治3年9月 千村平右衛門宛  
53.千村家笠松県へ引渡書類目録 明治3年12月17日    
54.千村十三郎家督相続許可書 明治4年12月19日    
55.千村家版籍奉還願(案文)     明治2年2月14日、尾張藩主徳川義宜は、薩長土肥の四藩にならい、版籍奉還を願い出るが、千村家は8月に藩知事を経由、朝廷に知行奉還願いを提出した。
56.江戸城絵図     大名の詰所が記入されており、千村家は柳の間詰であった。

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